会報 2022年01月
親愛なるブラジル岐阜県人会の皆様
謹んで新年のお慶びを申し上げます。 未だコロナウィルスの猛威は収まるところなく、形を変えて猛威を奮っており、不安な毎日を強いられていますが、そうした中、会員の皆様はご家族共々、新しい年を期待と希望も持ってお迎えになった事と思います。 私共ブラジル岐阜県人会は、昨年中はコロナ禍の中、皆さんと共に出来る範囲で色々な活動をこなし、結果を残してきました。 これは皆様のご理解ご尽力の賜物のそのものでして、この場を借りまして心より感謝申し上げます。 本年も引き続きご協力お願い致しますし、特に今年は3年振りの日本祭り(7月15.16.17日)がハイブリッドで開催されます。 我が県人会も、2回目の参加となりますが、一致団結して一層の努力と、新しいアイデアを出してレベルアップしたものを、ご来場またデリバリーのお客様に提供をしたいと思います。 日本祭りにおける郡上踊りも、2月くらいからは、練習しなくてはいけませんが、コロナ禍の現状で、対面で練習ができるのか、様子を見ながら始めたいと考えています。 岐阜名物“ほうば寿司”をサンパウロの方々に食べて頂きたいのですが、ブラジルには”ほうば“がないので、代用できる物を模索中で、上手くいけばこの日本祭りに間に合えばと願います。 特に日本祭りは、岐阜県人会皆様(特に若い方々)の協力無しには、実現できません!、早いうちに実行委員会を立ち上げて準備を始めたいと思いますので、どうか宜しくお願い致します。 同7月には、同じく2年間中止になっております、“岐阜県農業高校生海外実習派遣団”が再開予定ですので、その準備にも取り掛かります。 岐阜の若い人達にブラジルのスケールのデカさと、ブラジル人の陽気で親切な国民性を知ってほしいです。 前回同様、レジストロ市での農業実習を考えております、清水地方理事はじめ地元の皆さんにまたお世話になりますので宜しくお願い致します。 他には、例年のようにGMG(岐阜、三重、群馬)で年2回のイベントを開催予定です。 このジョイントイベントは3年目に入り、たくさんの方々から支持を得ておりますので、みんなで力を合わせて回ごとにレベルアップする様に、頑張りましょう。 そして今年も、岐阜県人会インターナショナル(GKI)のイベントに率先して参加しましょう! 年3回の定例会、年次総会そして念願の10月29,30日の「第一回岐阜県人世界大会」に、ブラジル、南米がこぞって訪日使節団を結成し少しでも多くのメンバーで、コロナ禍を吹き飛ばして岐阜県民、世界に岐阜県人と集い、語らい、絆を深め、岐阜県人のID(アイデンティティ)と誇りを再確認し、知見を深め、岐阜県の素晴らしさを国内外にアピールしましょう! 古田肇岐阜県知事は、GKIに対して、「県の頼れるパートナーになっていただくことを、大いに期待する。 」と述べられていて、GKIとしてブラジル岐阜県人会としてその期待に応えるべく努力をしましょう。 また、この世界大会参加と訪日観光をして母国母県の「良いところ」「良いもの」を体感して、ブラジルのご家族ご親戚ご友人に、紹介しましょう。 その後の11月には、「第18回日伯友好交流絵画展」を、橋下マルコス絵画展委員長を軸に委員会で、企画実施し、今年はハイブリッドで開催したいと願っております。 そして本年は久しぶりに忘年会を開催し新しく敬老会も兼ねて開催予定です。 あとは1泊2日の県人会慰安旅行を考えていますので、ご参加下さい。 今年もまたたくさんのイベントを催して参りますので、どうか引き続きご協力ご参加頂けますようお願い致します。 最後にコロナ禍の早期収束、ブラジル岐阜県人会の益々のご発展と、会員の皆様のご健勝、ご多幸をお祈りいたしまして、新年の挨拶とさせて頂きます。 頑張りましょう!2022年1月吉日(ブラジル岐阜県人会会長長屋充良)
ぎふ―世界の県人会便り⑤
親日国で岐阜思い活動
ジャカルタ岐阜県人会はインドネシア共和国のジャワ島にある首都ジャカルタで活動しています。 国の人口は2億7千万人、その首都ジャカルタの人口は約1千万人。
国の名前はよく聞くんだけど、どこにあるの?ってなりませんか?私もそうでした!「インドネシアはジャングルでしょ?」「ジャカルタってどこ?」私にとってはそれぐらい、認知度の低い国、都市でした。 この国は、シンガポールやマレーシアの近くで、赤道直下に東西5千キロメートルに広がる大きな国です.約1万3千超の島からなっており、その中でも大きな島はジャワ島、スマトラ島、スラウェシ島、カリマンタン島があります。 そしてジャカルタは南半球のジャワ島にあります。 多くのの人はマレー系民族で、イスラム教を信仰する人が多くいる国で言語はインドネシア語です。 なんと、バリ島はインドネシアでジャワ島の隣だってご存じでしたか?自然豊かな、きれいな海や山や森を持つ国なんです。 しかし、首都ジャカルタは近代的な高層ビル群で、最近地下鉄も開通し、新幹線の建設も進められてます。 この国は、バイク大国、渋滞王国ですが、二輪も四輪も90%以上が日本車です。 家電や食品も日系企業が早くから進出しており、過去の日本軍との関わりもあったことから、親日の国なんです。 県人会のメンバーも、そんな日系企業の進出に伴って出向などで滞在している人が大半です。 この都市には約1,2万人の日本人が暮らしているそうでして、本会は現在50名ほどの会員(登録人数は240名ほど)で活動しております。 岐阜を愛するメンバーが岐阜を思って集い、食事会やゴルフ会、時にはBBQや旅行などを通じて親睦を深めている会なんです。 いまはコロナ禍なので、実際に会することは中止しており、リモート飲み会を不定期に実地し、仲良く楽しく集まって、ワイワイやっております。 また当会は別名を持っておりまして「Ah~湯会」と言います。 岐阜の名物の「鮎」と温泉も豊富なので「湯」をかけて命名したと聞いております。 興味を持たれた方!ぜひインドネシアにお越しくださいね。
ジャカルタ県人会会長高橋良明(たかはし。 よしあき)さん略歴
名古屋市出身(本籍は大垣市)、61歳、名城大、名古屋工業大学院卒業。 オプコ(樹脂製品製造販売)代表取締役専務。 2012年11月にPT.OPUCOINDONESIA設立、18年からジャカルタ県人会の第3代目会長。
メッセージ
私は2012年11月にこの地で起業し、自動車部品などの樹脂製部品の製造をしております。 知らない土地にも慣れ、言葉も少しは分かるようになり、今では大変楽しく仕事に娯楽にと励んでおります。 ジャカルタにお越し際にはぜひ連絡お待ちしております。
連絡先 [email protected]
(岐阜新聞より転載)
長屋充良訪日報告(第3編)
11月19日(金)-第4日目 本日は、岐阜市役所新庁舎を訪問。
最初に、谷藤錦司岐阜市議会議長を表敬訪問(photo.1)。
ブラジルに、2018年に柴橋市長と共に訪伯され、再会。 柴橋正直岐阜市長を表敬訪問(photo2)。
牧ヶ野敏明岐阜市ぎふ魅力づくり推進部長と面談。
引き続いて公益財団法人岐阜市観光コンベンション協会山口晃専務理事、コンベンション推進課成瀬満江主査との会合で、世界大会補助金支援協力を要請。 意見を交換する。
久しぶりの再会となる岐阜新聞社杉山幹夫最高顧問との面談(photo3)。
GKI設立挨拶、GKI紹介リレー記事並びに様々なご支援に対するお礼、世界大会へのご支援ご協力を述べる。
世界大会前のゴルフコンペの会場を各務原ゴルフクラブ開催に対して、ご協力を得る。
午後は、大垣に移動、岐阜県立大垣北高等学校を訪問、近藤健ニ探求推進部長、鈴木彰校長と面談(photo4)。 ギフカセについて説明、興味をもたれる。
そのあと,イビデン本社を訪問,河合雅子さんのご紹介で,日米協会会長河島浩二氏(イビデン経営役員),前会長小川信也氏(太平工業株式会社代表取締役社長),上田昌宏氏と面談(photo5)。
世界大会の資金援助をお願いし,小川社長から,了解を得る。
岐阜に戻り,吉村泰典東京岐阜県人会会長と,面談。
夜は,ふるさと岐阜県人会の皆さんと交流会(photo6,7,8)!
(つづく…)
(原稿:岐阜県人会会長-長屋充良)
JICA情報
岐阜県にルーツを持つ森口エミリオ秀幸医博が、JICA 理事長賞を受賞決定されたとが2021年12月9日のJICA中部版で報道されました。 森口エミリオ秀幸医博は岐阜県出身の祖父(細江静男医博)、そして父森口幸雄医博に続き3世代に渡るライフワークとして、ブラジルのリオグランデ ド スール地方の日系コロニアの巡回診療を献身的に継続しておられます。 森口エミリオ秀幸医博は、「この受賞は、祖父の細江静雄と岐阜県も表彰されています。」と述べられました。2021年12月の出来事
- 07日 県人会会報10月号送信、郵送
- 16日 県連代表者会議
- 17日
- 宮坂財団、日本国総領事館、ニッケイ新聞にお歳暮届ける
- 長尾理事コンドミニアム会議出席。
- 18日 県人会定例理事会
- 20日
- 県人会会報11月号都12月号+年末年始カード郵送
- 森口エミリオ秀幸氏(細江静男ドクターの孫)にJICA理事賞受賞のお祝状を送る
- 24日~1月5日 県人会休館
2021年12月定例理事会議事録要旨
- 日時: 2021年12月18日(土)15:00
- 参加者: 長屋充良会長、金子亭資相談役、長尾ジョージ昇会計理事、佐久間ソニア書記理事、平野イラシ理事、大野美夏理事、中田リカルド理事、橋本亮絵画展委員長
- 議事録:
- 長屋会長挨拶
- 11月一杯岐阜に滞在し、スライドを見せながら帰国報告。
- 岐阜県人会の創始者細江静雄医博の孫で、リオ・グランデドスル州在住の森口エミリオ秀幸医師が、JICA理事長賞を受賞された事を報告。 お祝状を送る。
- 県人会の事務所年末年始閉鎖、よしこ事務局長の休暇も兼ねて、27/12~05/1を閉める。
- 11月度の出来事、佐久間理事より報告。
- 11月度の会計、長尾理事より報告。
- 2022年事業計画、予算案
- 1月28(土) – 役員選挙新聞掲載
- 1月30(日) – 第13回ブラジル岐阜県人会杯ゴルフコンペ
- 1-2月 – 郡上踊り練習再開
- 13/2(日) – 2021年度末定期総会&役員選挙於:ニッケイホテル(予定)
- 3月、10月(予定) – GMGイベント
- 5月-県人会 – 泊旅行予定
- 7月15,16,17日 – 第23回日本祭り参加
- 7月23~29 – 第42回岐阜県農業高校生海外実習派遣団来聖
- 10月 -「第一回岐阜県人世界大会」(10月29~30日開催)参加訪日団結成、出発
- 11月3日 – 第18回日伯友情交流絵画展ハイブリッド開催
- 12月 – 忘年会&敬老会
- 事務所改装-募金を集める。 台所設置、トイレ改装、塗装
- 事務所ビルの件長尾理事コンドミニアム会合報告、改めて文章にて役員に配布、検討する。
- 2021年度末定期総会&役員選挙
- 定期総会を2月13日(日)とする。
- 役員選挙について現執行部の継続を確認。
- 長屋会長挨拶

私は29年前の1992年、JICAの青年海外協力隊制度でブラジルに派遣され、その後サッカージャーナリストになり長く住むことになりましたが、これまで日本人だからと差別されたことはなく、反対に日本人だからと信用され、温かく迎えられ、嫌な思いをしたことがありません。 それは、1世起以上に渡って移民の方々が絶え間ない努力で信用を勝ち取り、この国の成り立ちに貢献した恩恵を受けているからです。
岐阜県との縁もとても古い事をご存じですか?初めて岐阜県人がブラジルに移住したのは今から108年前の1913年。 県人会は38年に設立されました。 郷里の者同士が互いに助け合って異国の地で生き抜いた1世の時代から、現在は2,3世がメインになってきました。
主な活動として17年間続いている日伯友情交流絵画展の開催や、1978年から続いている農業高校生海外実習派遣事業の受け入れがあります。 絵画展は昨年、今年とコロナ禍のためバーチャル開催となりましたが、それを逆手に取り、日本、岐阜からの
出展者をお迎えできるようになり、まさに日伯の美術交流の懸け橋となっています。 また、郡上おどりをブラジル最大歩行者天国と言われるパウリスタ大通りで披露。 毎月発行する会報は日本語ポルトガル語のweb版で世界に向けて発信しています。 ブラジル県人会のみんなの心は「ちっちゃな岐阜親善大使」なのです。
県人会の2世、3世の中には日本語が話せなかったり、日本に行ったことがなかったりする人もいます。 それでも、岐阜を「ふるさと=自分のルーツ」と思い、「もっと知りたい。 岐阜を誇りに思いたい」と愛情たっぷりなんです。 世界に、こんなにも岐阜に恋焦がれている人たちがいるって驚きですよ!
日本から遠いとはいえ、その昔、船で50日間かけていた頃を考えれば、日本まで1日で行けるなんてあっという間ですよ!
だからこそ、ここまで来てくださった方々を熱烈歓迎いたします。 わが家でシュラスコパーテイをやりますので、ぜひおいでください!
ブラジル県人会大野美夏(おおの。 みか)理事略歴
岐阜市生まれ、揖斐郡揖斐川町育ち。 サッカージャーナリスト、岐阜県人会インターナショナル(GKI)副会長。 54歳。
メッセージ
家族は日系2世の夫と大学生の娘と猫4匹。 サンパウロ市在住。 1995年からブラジル代表のサッカー選手や監督の取材を続け、ネイマールなど選手の少年時代を書いた本の出版も。 最近はサンバ演奏に使われる楽器カバキーンニョ、歌のレッスン、コーラスを始めました!
山田伝夫支社長、朝田憲部長との面談。 (右から2人目)
昼食は、岐阜市市民生活部長田中啓太郎様、伊藤エリ課長、佐藤智香係長、水野県庁国際交流課係長との会食との会食。 (右写真))
午後岐阜県国際交流センターとの打ち合わせで、原正憲専務理事との面談があり、JETプロジェクトで働いているパラナ州クリチーバの宮本レオナルド君、ブラジルに来られた国枝さんも同席する。
その後北方町まで移動して岐阜県立岐阜農林高校を訪問。
谷基校長水野泰孝教頭、中野輝良産業教育係係長、足立伸幸教諭が同席され、学校内を視察、途中行き交う生徒の「こんにちは」の元気ある挨拶に逆に元気をもらう。
のち岐阜市に移動、「第一回岐阜県人世界大会」の会場となるサラマンカホール、ふれあい会館を視察。 河尻香代子さん、ジョナサン、太鼓で世界一になった加藤拓海三さんと合流、矢﨑雅副館長に案内頂く。
サラマンカホールの壮厳さに圧倒され、このホールをいっぱいにしなくちゃ!と、奮い立つ。 大会議室(GKIメンバーの講演)、中会議室(地場産業、海外進出の企業案内スペース)小会議室(書道、和傘などのワークショップ)を予定。
夜は、岐阜市役所国際交流課の皆さんと会食。
【長屋、ハッピー訪岐報告】
14日間の自粛も終わり、本日より活動開始!
ハッピーと初対面ながら旧知の仲の様に、違和感なくスムーズに我々の活動が開始しました。
第一日目の初面談は、美夏さん(GKI副会長)の叔父様にあたる株式会社三光堂社長大野正和様で、ご自身の経歴やら、岐阜市の観光大使としての活動、中国進出のお話などお話いただきました。
世界大会のご支援ご協力をお願いし、大変好意的な様子でした。
1時間余りの面談となり、GKIのご紹介もしっかりできたと思います。
2人目は岐阜県のケーブルテレビCCN社で、橋本部長にお迎え頂き、CCN社社長皆様との会議となりました。
ジョナサンのご紹介により、2022年1月1日午前11時(日本時間)から3時間の年始特別番組にGKIとしての参加を依頼され、オンラインを通じて世界各地のGKIメンバーによる生中継を送り、年末年始の世界の生の映像を送るというものです。
これから具体的な内容を煮詰めていき、逐次報告頂く事になり、我々加盟団体で参加者を募る事となりました。
ジョナサンに窓口、担当責任者としてお願いしたいと思います。
その他、世界大会の中継やら色々なイベントにつき、ご協力いただけるという事で、合意しました。
このお店のアルバイトの長尾凛さんは、元岐阜県農業高校生海外派遣団員で、現在岐阜大学生で、偶然お会いし、覚えていてくれて思いがけない出会いに感動しました。 (つづく。 。 。 )
現在は日系人20万人、移民も6,7世代を数えます。 文字通り日本文化も継承され、暮らしの中の古い習慣は「明治が生きている」と表現する人もいます。 常夏の夏季は長く3ヶ月にわたり、神社寺院などで盆踊りも盛ん。 日本各地のお盆の歌と浴衣姿で故郷をしのんでいます。
現在はコロナ禍でアジアの国からは入国規制があり、日本人もPCR検査とワクチン接種済み以外は訪問不可能ですが、つい1年半前までは1日4千人が訪問。 どこでも日本語で通じた島もコロナデルタ株に翻弄され、「日本人が訪れない夏」を体験し寂しい保養地でした。 過去35年間の観光案内で岐阜からも多く訪問いただき、岐阜新聞の読者も県全域にわたり在住、私が里帰りの折には各地で声を掛ける機会に恵まれます。
ハワイと岐阜がずいぶん近くなった気がします。 当地に住む岐阜県人は移民の歴史が薄く、同じ岐阜出身を探すのは大変です。 ですが「岐阜県ファン」の人は多いので岐阜土産に歴史や風景の写真などで年1度の親睦会を開いてランチタイムを一緒に楽しんでいます。 反対に、ハワイの自然風景の写真と趣味の「心の詩」の書道をJR岐阜駅隣接のハートフルスクエアーGにて2年に1度展示しています。 ぜひご鑑賞ください。
今後とも日本とハワイ両国に住む人同士の仲介役も兼ねて、人生を楽しんでいきたいと考えています。
ハワイ県人会玉井宏光(たまい。 ひろみつ)会長略歴
岐阜市出身。 ロサンゼルスで15年間、旅行社経営。 ハワイで33年間、観光案内業。 岐阜市の富田学園前で文房具屋を営んでいた。 79歳。
メッセージ
元気なうちは、日本とハワイ間を往復して、両国の人にそれぞれの国で生きる良さを伝えたり、日米で知り合った人たちと一緒に人生を楽しみたい.今一番面白く生きがいになってるのは人との交流。 SNSで「ハワイの玉ちゃん」日記を発信中。 連絡先:
最近、私は新しいことを始めた。 その新しいことはとても楽しく、新たな発見をもたらし、私に喜びを与えてくれている。
そんな幸運を私に運んでくれた人の名前は、「よしこさん」だった。 奇遇にも私の母と同じ名前だ。 私の母は84歳で、74歳の時に夫を亡くしてから、自分でやれることをやろうと自立心を持って生きている尊敬すべき「よしこさん」だ。 今年になってから、LINEの文字入力を覚えやりとりができるようになったなかなか革新的な「よしこさん」だ。
遠く離れているが、母が元気でいてくれることは私の支えであり、私の誇りだ。
だから、「よしこ」と言う名前を聞くと、無条件にシンパシーを感じ、とても嬉しい。 だって、「よしこさん」は私に幸運をもたらしてくれる人なのだから。
ひょんなことから、私が歌を習っているということを「よしこさん」に話したら、彼女の入っている合唱団のことを教えてくれた。
クラシック音楽専門の男声女声混声合唱で、アマチュアながらも、プロのオーケストラとのコンサート、オペラなどを大きな劇場でやるという。 そんな素敵な合唱団がサンパウロ市にあるんだなと、とても興味を持った。
「よしこさん」の口添えで私は練習を見学に行くことになった。 マエストロに声のテストをしてもらい”ソプラノ”と言われ、あれよあれよという間に私は入団していた、らしい(笑)。 訳がわからないまま、近日中に予定されているコンサートで合唱団のメンバーとして歌うことになっていた。
その曲は、ブラジルが生んだ偉大なる作曲家『ヴィラ・ロボス』の”ショーロス10番”というオーケストラと合唱の壮大な作品だった。 まるで、ブラジルのジャングルに迷い込んで、鳥や動物の鳴き声が聞こえ、もっと中に入っていくと、そこにはインジオたちが踊りながら集会していた、というようなシチュエーションが浮かび上がってくるようなエキゾチックでブラジル的な素晴らしい曲だ。 歌いながら、自分がその曲の世界の一部となるような不思議な感覚を味わった。
曲を初めて聞いたところから、わずかひと月ほどで舞台に立たせてもらうという貴重な経験ができたことは本当にありがたいことだが、それ以外にも、いいことがあった。
私は、もう29年もブラジルに住んでいるが、時々、「なぜ自分はここにいるのだろう?」と宙ぶらりんの気分になることがある。 ソプラノのメンバーの中に私以外に外国人がいた。 イタリア人のフェデリカだ。
フェデリカに「ブラジルとイタリアはかなり違うでしょ?」と訊いた。 「すごく違う。 最初は慣れるのが大変だった。 」と彼女は言った。
そして続けて「でも、ブラジルにはブラジルのいいところがある。 それを楽しめばいい。 ブラジルでは初対面でもハグしたり、ほっぺのキスしたり、すごく人と人の距離が近い。 ブラジル人はすごくオープンで寛容だ。 そして、イタリアに行った時は、イタリアのいいところを楽しむ。 」
それを聞いて、「そうか、ここに全てを求めてもそれは不満になるだけだ。 そうではなく、ここで出来ること。 ここならではのことを楽しめばいいのだ。 二つの国を知り、二つの国とともに生きて、2倍楽しめばいいんだ。 」と心が軽くなった。
私に幸運をもたらしてくれる「よしこさん」が結びつけてくれた新しい世界。 一つの曲が終わり、次の曲(ベートーベン第9!)もまたしても大きな挑戦だが。 楽しみたいと思う。
ちなみにブラジルの「よしこさん」はブラジル岐阜県人会の敏腕事務員さんだ。 ありがとう!)
去る2021年9月26日(日)13:00より、ビラマリアーナ区のブラジル日本語センター(CBLJ)にて、「2021年 日本語スピーチコンテスト&県費留学発表会」が開催されました。
県連とCBLJの共催で、スピーチコンテスト26名(内、19名非日系人で、10名の対面、16名のオンライン参加のハイブリッド発表会)、5名の県費留学発表となりました。
県連のスタッフとして参加させて頂き、2回目となりましたが、26名中19名の非日系人の参加ということと、その日本語能力レベルの高さに驚きました。
日本語を学ぶというには、語学だけでなくその国の文化、習慣を学ぶ事!ということを実感しました。
それは参加者、特に非日系人の振る舞い、態度が全く日本人で、しっかりした挨拶、応対、謙虚、礼儀正しさなど皆さん共通して備えられていて、話の内容、日本語能力の高さ共々、心から感動しました。
準備を合わせると8時間近いイベントではありましたが、初めてのオンライン、対面のハイブリッド発表会でしたが、要の佐々木佳子先生初め、特にCBLJの非日系人のサントス市の日語教師アンダル ソン ミランダ先生率いるミレーナ バストスさんなど若いスタッフの方々の素晴らしい企画運営で、完璧な大成功のイベントとなりました。
優勝者:
タイ国岐阜県人会は2003年に発足し、現在18年目を迎えています。会員は岐阜県にゆかりのある方々で構成され、会員登録者数は242人と年々増加しています。
タイは1年を通じて気温が高く、年中通してゴルフができるので、多くの方がゴルフをします。ゴルフをする人としない人では、タイにおいては仕事上の人脈の広がり方が全く違うので、我々はタイ国県人会としても、タイに来た人にはゴルフを始める事をお勤めしています。日本のゴルフ場も以前より値段が下がり、タイのゴルフ場の値段と変わらなくなっていますが、プレーヤ―1人にキャデイーが1人付いてくれるのでゆったりとゴルフができ、ゴルフを始める人にも良い環境だと思います。また、タイのゴルフ場はほとんどのゴルフコースでドレスコードが無いので、ジーンズやビーチサンダルで気軽に出かけることができます。タイ国県人会でも、年4回ゴルフコンペを開催し県人会会員の友人や上司などが旅行や出張でタイに来られた時にもゲストとしてお迎えし、ゴルフコンペなどに参加頂いております。また、ご家族も参加できるイベントとして、年3回の親睦会も開催しており、老若男女が楽しめるような会の運営を心掛けるようにしています。岐阜県にゆかりのある方であれば、タイに旅行や出張の際には気軽に声をかけていただければと思います。
現在タイは新型コロナウイルスの影響もあり、この1年間ほとんどのイベントが中止となり、皆さまと顔を合わせることができませんでした。来年には新型コロナウイルスが終息し、岐阜で開催される岐阜県人会インターナショナル(GKI)主催の世界大会に参加できる事を当方自身心待ちにしています。
最後に、日本にお住いのタイ人の方や過去にタイに駐在されていた方、来年の「世界大会」にぜひお越しください。タイの方は写真を撮るのが好きだと思いますので、みんなと一緒にほほ笑んだ写真を撮ってほほ笑みの国タイを岐阜県でアピールしましょう。
タイ国岐阜県人会会長 白井英樹さん(うすい ひでき)略歴
1990年大垣共立銀 行入社。同社ニュ ーヨーク支店、同 社香港駐在員事務所長を経て 2014年から同社バンコック駐 在員事務所長。19年にタイ現 地法人WiSE&OK社代表 取締役に就任。15年からタイ 国岐阜県人会会長。54歳。
メッセージ
海外に無縁、岐阜にUタ ーン就職した地方銀行の社 員が海外駐在17年。ただい まだに岐阜弁は健在です。 タイでゴルフもいいです よ。タイに来られた時は、 ぜひお声掛けください。
連絡先
第17回日伯友情交流絵画展は、ブラジル国に居住する37名と日本居住者7名過去最高の計44名のアーティストが参加し、合計69点がデジタルプラットフォームで展示されています。
今回は、1960年代移民者で世界的に有名な芸術家となった、クスノ トモシゲ画家に敬意を表します。
この絵画展実行委員会は加藤允彦先生、小田エルザ先生、矢島英二先生、そしてブラジル岐阜県人会会長の長屋充良氏の参加で4月から準備が行われてきました。この委員会は、展覧会の開会日まで毎週行われました。
申し込み手続きはサイト上と県人会事務所で直接行われました。
また今回も、毎回ながら宮坂国人財団の真心からのスポンサーを得て、ビジュアルプログラムデザイナーを雇い、グラフィックを充実させました。
来年2022年は新たな企画として、「過去の通常対面絵画展」に戻るのではなく、社会すべての分野が現状を見直し確認する必要があり、従いまして今回前回のバーチャル絵画展以外に、第18回絵画展は新たな挑戦になる、在サンパウロ総領事館多目的ホールでの展示イベントを再開し、尚且つ継続してバーチャル絵画展とのハイブリド形式の絵画展開催の可能性も考慮しております。
最後に、在サンパウロ日本総領事館、桑名良輔総領事様、毎回ながらご尽力頂いた領事館職員の皆様のご支援とご協力に改めて感謝申し上げます。
同じく絵画展開催当たり。ご出展頂いたすべての皆様、裏方としてご尽力頂いたブラジル岐阜県人会の佐々木ヨシコ事務局に感謝申し上げます。
初めまして。旧板取村出身の長屋充良です。今年5月に設立された岐阜県人会インターナショナル(GKI)会長、ブラジル岐阜県人会の会長を務めています。
今から38年前、20代の私はブラジル・サンパウロに半年の出張で来たのですが、なんと移り住むことになってしまいました。1人で来た私が今では孫を含め10人の大事なファミリーをこの地で持つに至っております。
今から10年前、お誘いを受けブラジル県人会の活動に関わることになりました。当時、かなえようとした夢がありました。世界にはたくさん岐阜県人会があります。世界中の岐阜県人会が情報を共有、交流することで各国県人会の活性化と岐阜県の国際意識向上の起爆剤になれる、と思ったのです。
早速、熱い思いのメールを各県人会に送りました。「世界岐阜県人会サミットを開こめえ」と呼び掛けましたが、地理的、情報伝達不足で実現できませんでした。
そんな夢を突然実現に向かう後押しをしてくれたのが、奇妙なことに新型コロナウイルスでした。コロナ禍でオンラインによる情報交換が急速に浸透して、ウェブ会議が日常になったのです。今年の2月に「世界岐阜県人会をまとめるには今しかない」と考えて、世界の岐阜県人会にメールを送ったのです。
すると10年前にはなかった反応を次々といただき、わずか3カ月後の5月23日、オンラインで100人近いメンバーと設立総会を開催することができました。
不可能が可能になった瞬間でした!
GKIは岐阜と世界をつなぐ懸け橋になりたいと思っています。海外在住の岐阜県人は日本から遠く離れていても、ふるさとを忘れることはありません。そんな世界の岐阜人と岐阜県民をつなぐことがミッションです。
海外に興味のある岐阜の若者が一歩を踏み出す後押しをしたり、岐阜は「いいもの」「いいところ」がたくさんある魅力的な地域だと海外からの視点を伝えたりして、海外進出に興味のある個人、企業に現地情報を伝えるお手伝いができればと願っています。
「世界から岐阜に、岐阜から世界に!」。GKIは「岐阜愛」をつなぎ、岐阜県の素晴らしさを世界の人たちに叫びます!
◆GKI会長 長屋充良さん略歴
ながや・みつよし 関市板取出身。柔道整復師、カイロプラクター、理学療法士、ブラジル県人会長。62歳。
▼メッセージ: 日系2世の妻と3人の子供(全員医師)とサンパウロ市内でリハビリクリニックを経営しています。2人の孫にデレデレです。趣味はゴルフ、テニス、釣り、社交ダンス、飲み会。誘われたら断りません!
杉原千畝(すぎはら ちうね)は1900年01月01日に岐阜県武儀郡上有知町(ぎふけん むぎぐん こうずちちょう)(現在の美濃市(みのし))で誕生しました。 父は好水(よしみ)、母はやつです。 5人の兄弟と1人の姉妹のうち、次男でした。
生まれた時、父は上有知町(こうずちちょう)の税務署に勤めていて、家族は近くの教泉寺の貸間に住んでいたという。
父とその家族は、同地に継続して居住します。 1903年に福井県丹生郡朝日村(現・福井県丹生郡越前町)へ転居します。 1904年から1907年までは、家族は三重県四日市市、岐阜県恵那郡中津町(現・岐阜県中津川市)、三重県桑名郡桑名町へ転居します。 1907年3月31日、三重県桑名郡桑名町第一尋常小学校(現・桑名市立日進小学校)へ転校します。 同年12月に父が韓国統監府の聘用のため単身赴任します。 その後、名古屋古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)へ転校します。
1912年名古屋古渡尋常小学校を優秀な成績で卒業して、旧制愛知県立第五中学に入学しました。
父親は彼が医者になることを望んでいましたが、彼の夢は英語を学び、英語教師になることでした。 受験当日、千畝は父に「頑張れよ」と言われて家を出ましたが、テストの時には、見出しに自分の名前だけを書き、鉛筆を脇に置き、テストが終わると白紙のまま提出しました。 千畝は、1918年に名門の早稲田大学に入学して英語を学びましたが、大学を中退しました。
1919年日本外務省留学生試験に合格し、中国のハルピン学院で聴講生としてロシア語とドイツ語を学びました。 ロシア問題の専門家として活躍しました。 その後、中国のハルピンの日本領事館に勤務します。
1939年にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理に任命され、ロシアやドイツの軍隊の動きを報告するのが任務でした。 1939年9月、ドイツはポーランド西部に侵攻し、9月17日にはソ連がポーランド東部への侵攻を開始します。 時は1940年、ドイツ軍によるユダヤ人に対する恐ろしい迫害のニュースや報道が広がっていました。 多くの難民はロシアが支配するリトアニアにたどり着くことができましたが、ドイツ軍が現場に到着するのは時間の問題でした。
難民にとっては、ソ連を経由して陸路で逃げるしかないのですが、国境を越えた後に他の国に受け入れられる事を証明するようにロシア側は求めていました。 杉原は東京にユダヤ人の状況を説明する電報を打ち、通過ビザの許可を求めますが、3回も拒否されました。
日本のビザは通過のみなので、最終目的地を申告する必要があり、カリブ海にあるオランダ領のキュラソー島が候補に挙がりました。
杉原は、外務省から拒否され、罷免される危機に直面しながらも、08月1日の朝、15分ほど掛かるビザの発給を開始しました。
杉原は昼食を食べずに連日ビザの発給をしていました。 正式な書式がなくなっても、手書きで書き続けました。 日が経過するとともに、体が弱くなり、睡眠不足で目が腫れましたが、ビザの発給を続けました。
8月の第3週目に、杉原のもとに「神戸港に大量のポーランド人が日本に到着して混乱しているので、やめてほしい」という電報が届きました。
訓令を無視していたため、8月末にはソ連から領事館の閉鎖を要求されました。 東京は杉原にベルリンへの異動命令を指示しましたが、さらに多くのユダヤ人が到着していたため、杉原はホテルにもう1日滞在を伸ばして、できるだけ多くのビザを発給することにしました。 1日に300枚のビザを発行していましたが、通常なら1ヶ月間のビザの発行数であります。 ホテルまで一家を大勢の人が追いかけました。
翌朝、杉原一家を追いかけて駅に向かう一行。 列車の中でも必死に書き続けていましたが、皆にビザを発行できません。 最後の手段として、白紙の紙に自分の名前をサインして、スタンプを押し、残りの部分が記入されることを期待しました。 ベルリン行きの列車が出発した時、杉原はまだ紙に署名していました。
結果 – 杉原の訓令を無視した行動は、彼の輝かしい外交官キャリアを突然中断させ、1947年6月7日外務省から退職通告書が送付されてきました。 その後、参議院事務局、連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院講師、科学技術庁、NHK国際局などの職を転々とします。 1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ駐在員、1969年(昭和44年)に蝶理へ勤務、1971年(昭和46年)からは国際交易モスクワ事務所長などを務めましたが、英雄ぶりを誇示したことは有りませんでした。
1968年救われたユダヤ人の一人であるイェホシュア・ニシュリと再会してから、何百もの証言が出てくるようになりました。 その後、イスラエルのヤド・ヴァシェム(ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の犠牲者達を追悼するためのイスラエルの国立記念館)により、杉原の業績の重要性が徐々に認識されていきました。 子孫を含めて約5万人が彼のおかげで生きています。
英雄的な行動から45年後の1985年、元外務省官はイスラエル政府より、日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞しました。 同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢のため、出席できませんでした。 1986年、鎌倉市内の病院で死去(満86歳没)。
参考資料:
私は1936年サン・パウロ州のオンダ・ヴェルデ(Onda Verde)市で誕生しました。 ブラジル国籍所有者、既婚者です。 父母金子忠三郎・ヒサは、岐阜県高山市国府町(ぎふけん たかやまし こくふちょう)の出身で、3年間の契約を結んで、1932年ブラジルに移住して、サン・ジョゼ・ド・リオ・プレット(São José do Rio Preto)市のコーヒー農場で働きました。 その後、サン・ジョゼ・ド・リオ・プレット(São José do Rio Preto)市周辺の町で働いていましたが、ミランドポリス(Mirandópolis)市の北西に土地を購入して、綿花、トウモロコシ、豆(feijão)などを栽培しました。 父母は4人の子供を授かり、私は三番目の子です。 1947年私たちはサンパウロ州リベイロン・ピレス市(Ribeirão Pires)オウロ・フィノ・パウリスタ地区(Ouro Fino Paulista)に定住しました。 父母はトマト、野菜の栽培や、養鶏も始めました。
1951年私たちは首都サンパウロ市に転居して、父母は穀物や乾物の売店を買いました。 その後、父母はイピランガ (Ipiranga)地区市場の乳製品の売店を買うことができました。
1962年私たち兄弟は父母の仕事を引き継ぎ、乳製品の売店を運営する傍ら、お菓子やビスケット、お祝いの品物を売る店を開きました。 10年後、厚紙で作ったさら、お盆、カップ等々、キャンディの包み紙、帽子、お菓子の紙容器などを製造する、パーティー用製品の製造業を立ち上げました。
私の学校教育は、小学校からサン・パウロ市の技術・デザイン学校を卒業するまで、すべてサン・パウロ市で受けました。 私は1965年に永尾洋子さんと結婚し、3人の娘に恵まれました。 みんな大学を卒業して、それぞれの職業に就きました。 4人の孫がいます。
イピランガ地区の最優秀商人や、ブラジル紋章学・人文学協会(Brazilian Society of Heraldry and Humanistics)からの表彰など、職業を通じていくつかの賞を受賞しました。
1981年ボン・レチロ・ライオンズ・クラブ (Lions Clube Bom Retiro) に入会して、2期にわたってクラブ会長を務めました。 私は会員として、現在も社会のためにいろいろな慈善活動に参加して、託児所や老人ホームを支援したり、ベーシック・食料・バスケットを寄付したりしてきました。
1990年以来、私はサンタ・クルス日本病院(Hospital Japonês Santa Cruz)の終身顧問を務めています。 日系ライオンズ・クラブの活動により、日系ブラジル人社会のために病院を再び取り戻すことができました。
1989年以来私は岐阜県人会に於いて、参加活動して、1999年にはブラジルの岐阜県人会に貢献した事を岐阜県から表彰されました。 私の娘2人が岐阜県の県費留学生制度に参加させて頂き、感謝しています。
「変人」第2次世界大戦の頃、そう言われていた男性が揖斐郡揖斐川町にいた。 「アメリカは強い」と言って逮捕され、家族には迷惑がられた。 実はハーバード大でピアノを学ぶなど、戦前の米国で約20年過ごした国際人だった。 「戦争がなければ、時代が違えばもっと評価されたはずなのに」。 惜しむ声が上がる。
大柄な米国人の男女の中、スーツ姿の小柄な日本人が腕を組んでいる。 大野寛正が1916年、南カリフォルニア大音楽科で学んでいた頃の写真だ。 「西洋人に負けない、という意地が感じられる」と寛正の弟の孫、美夏さん(53)が話す。
寛正は1889(明治22)年、同町岡で生まれた。 岐阜県農林学校(現在の岐阜農林高校)卒業後、県庁に就職するが1年で辞め、1907年に渡米。 米国人の家庭で働いていたとき、ピアノに出会った。
ピアノに触ったことも音楽の勉強をしたこともなかった。 それが「過去の経験と全く異なった趣味で鮮やかな成功を思い立ち」(寛正が残した文章)、ピアノで生きていく事を決めた。
ポートランドの私塾を経て、南カリフォルニア大、ハーバード大、ニューヨークの学校で音楽を学び、18年、ロサンゼルスを拠点に作曲家になった。 寛正が作曲した曲の楽譜は米国で販売された。 広告が載った同年のロサンゼルスの地元紙や楽譜が実家に残っている。
米国で音楽家としての人生をゼロから積み上げたが、やがて時代にのまれる。 25年8月、寛正は帰国した。 理由ははっきりしないが、前年に米国は日本からの移民を禁止する法律を制定。 日本人の居場所は減っていた。
揖斐川町の実家に戻った寛正は、米国から持ち帰ったピアノで音楽を教える研究所を開いた。
古里にはなじめなかった。 寛正を直接知る人は「断トツに変な人だった」。 「日米が開戦すると「米国は強い」「自動車がそこら中にある」「日本は負ける」と平気で発言。 自分自身の目で見た事実だったが、周囲は理解できず、警察に捕まった。 戦後は音楽から離れ、旧大蔵省や進駐軍岐阜キャンプの通訳、教師、証券会社の外務員などをし、63年10月に74歳でなくなった。 生涯独身だった。
美夏さんは「尊敬の念しか湧かない」という。 寛正は家族の中でも語られることはなかった。 「すごい人。 でも時代に合わなかった」。
世界を目指した寛正の精神を受け継いだのか、美夏さんは30年ほど前からブラジルに住む。 寛正が実家に残した日記をブラジルに持って行き、時々目を通すという。
「戦争がなければアメリカで多くの作品を発表し、自分のやりたいこと、言いたいことを言っていただろう。 間違いなくもっと幸せだったはず」。 時代に翻弄された先人を、美夏さんはそう惜しむ。
去る7月3日午後9時(ブラジル時間)、記念すべき第一回を柴橋正直岐阜市長をお迎えし講演を賜り、80名近くの参加者に大変感銘深い会となりました。柴橋市長は、5月6日に、岐阜新庁舎を開庁され、市民の方々とともに、気軽に集まれる、岐阜市民として誇れる街づくりに取り組んでおられます。
講演では、スライドを使いながら岐阜市の開発を地区に分けて説明いただきました。
1 . 岐阜駅前、2 . 柳ヶ瀬周辺、3 . 岐阜市庁舎周辺、4 . 岐阜公園、長良川周辺についての再開発を、ひとつひとつ説明いただきました。
岐阜駅前の開発については、「もてなし」というコンセプトで岐阜市の玄関として高層ビル建設、問屋街の再整備,
柳ヶ瀬ゾーンでは、「にぎあう」で旧長崎屋跡、金公園の再整備、また若い世代の人たちが新しい店をどんどん開いていて活性化している。
つかさのまちゾーンは、「ふれあい」で岐阜市庁舎を中心に、みんなの森岐阜メディアコスモスなど市民が気軽に集まれる街づくりを推進している。
岐阜公園ゾーンは、「魅せる」という事で、金華山、岐阜城、長良川が一番有名な部分で鵜飼だけでなく、屋形船を利用した船上宴会、川上舞台での日本舞踊披露、川の辺りで「夜市」を催したり、川原町は昔の城下町の面影を残しながら、伝統文化の和傘を若い伝統職後継者たちが新しい感覚で、色とりどりの和傘が作られて、脈々と受け継がれている。
そうした岐阜市再開発計画をスライドで紹介していただき、その壮大な街づくりにワクワクし、岐阜に帰るたいへん楽しみとなりました。
そうした素晴らしさを世界にアピールしたいと思います。
あと質疑応答があり最後に記念の写真撮影、そのあと柴橋市長がご退席されました。
7月3日が市長の誕生日で、南米北米は時差の加減で、まだ3日だったので、参加者みんなでお祝いしました。
続いて第2部は、カンボジア岐阜県人会会長、GKI副会長 西えりこさんの発表です。
高山市出身の彼女は、縁あってカンボジアを訪問し、日本で何不自由なく生活していた彼女にとってカンボジアでの様々な出会いは、貧富の差とか、慣習の違いなど彼女の人生観を変える衝撃的な出会いと、貧困の生活に中にありながら、屈託の無い、ピュアな国民の笑顔が大変心に残り、カンボジアの貧困層の方に何か力になりたいと、カンボジア永住を決められたそうです。
実際に行動に移され、今迄、貧困層の方々には十分な医療サービスが無く、彼女は仲間を作り行政を動かし、無料で医療サービスを受けられるシステムを構築し、人々の福祉に寄与され、また日本の伝統技術をカンボジアの人達に習得させ自活自立させる為に、日本の伝統飴製造技術を伝授し、会社を立ち上げ活動の輪を拡げてみえ、大和撫子大奮闘を語って頂き、沢山のウェブ会議参加者に感銘を与えました。
第一回GKIオンライン定例会として、お二人のお話しは参加者の皆さんの共鳴を得て大成功だったと思います。
次回第2回オンライン定例会は、日本時間10月24日(日)午前10時から岐阜女子大学丸山教授の「岐阜の歴史」について講演をお願いし、もっと岐阜の知見を増やそうと企画しております。
どうか皆さん奮ってご参加下さい。
岐阜県を盛り上げようと、県内在住の人たちが中心となって5月、「ふるさと岐阜県人会」を立ち上げた。普通、県人会は県外や海外にあることが多い。なぜ県内在住の人たちが? 設立の理由を聞くと、コロナ禍が背景にあった。
「ふるさと岐阜県人会」は元美濃市観光協会事務局長の池村周二さん(61)=美濃市亀野町=が会長、衣斐淳美さん(53)=揖斐郡揖斐川町小島=が副会長として立ち上げた。会員制交流サイト(SNS)のアプリ「クラブハウス」が会員を結び付けた。 クラブハウスは音声だけでやりとりする。参加者同士で対話したり、話を聞いたりして交流できる。池村さんは今年2月、アプリ内に「岐阜県民会」というコーナーを開設。これまでに100回以上交流する機会をつくり、平均で5、6人、多いときには一度に20人以上が参加した。参加者の中にはブラジル県人会の役員もいて、「地元に県人会があってもいいよね」との話から設立に至った。9人が初期メンバーとして加わった。
池村さんは「コロナ禍だから、SNSで人のつながりが深まった」という。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、ビデオ会議やSNSを使う人が世界中で同じように増えた。「岐阜が好き」という共通の思いを持つ人たちが、全国や世界各地から簡単に集える場がSNS上に生まれた。 5月には、国内外の24県人会による「岐阜県人会インターナショナル(GKI)」が設立された。GKIは来年秋をめどに、県内で県人会関係者が集結する世界大会の開催を目指している。「ふるさと岐阜県人会」もGKIに加わり、開催のサポートを予定している。
「GKIの一つとして海外の仲間を支えたい」と池村さん。「彼らが岐阜に帰ってきたとき、気軽にお茶でも飲みに行ける存在でありたい」と話す。
問い合わせは会員制交流サイト「フェイスブック」内のグループ「岐阜県民会」へ。
去る6月27日(日)第2回GMGイベントを無事執り行うことができました。
先回初めての試みでしたが好評で、各県人会役員もこれならいけるという事で、今年から年2回やろうという事になり、4月に予定していましたが、コロナ禍悪化に伴い5月、6月と延期して今回の開催に漕ぎ着けました。
換気対策、人数制限、スペースを開くする、検温、マスク、アルコール消毒、手袋などを施し、十分注意を払い、何度も準備委員会を設け毎週金曜日19:00から協議を重ね、今回のメニューは、焼きそば(ベジタリンにも用意、群馬県人会担当)、たこ焼き(岐阜県人会担当)、餃子(ベジタリアン用もあり、岐阜県人会担当)、唐揚げ(三重県人会担当)、苺大福(三重県人会担当)として、特に注目するのは、全ての物がミックスしていて、色んな料理を味わえる取り揃え「セット」でした。
他に今回、テイクアウトとデリバリーの便宜を図る取り組みも考えました。
「マルイチ」からスポンサーを受け、また、ニッケイ新聞からもご支援いただき、SNSや、新聞、友人、家族を頼りに宣伝し、皆さんのご協力で3日前の締め切り前に完売となりました。
また沢山の方々からご支援いただき、卵、野菜など提供頂き心より感謝申し上げます。
イベントは、前日土曜日に前もって準備に会場三重県人会館に集まり、会場設定、仕込みなどを行い、当日は11:00から、受け渡し開始で、6:30に集合して料理を作りました。
今回、いつもご協力いただいているインダイアツーバの中田ご家族もご参加頂きサンタカタリーナに駐在している中田顕三岐阜県人会理事も駆けつけてくれました。
GMG3県人会以外にも、助っ人として、マリーナ福島県県人会会長、ジルベルト奈良県人会会長、パトリッシア東京都友会メンバー、県連から、Lina、ネルソンも友情参加頂きました。 この場をお借りして、深く感謝いたします。
11:00には時間通り、受け渡しが始まり、約800食を売り切りました。 沢山の方々にご参加頂き、大成功に終わりました。
これからまだまだ改善していかなければいけない点は多々ありますが、特に初めての取り組みでしたデリバリーで、一部の皆さんに遅配のため多大なご迷惑をお掛けしてしまった事であります。
39名の方がデリバリーをご利用いただいたのですが、2台のモトリスタを用意しておりましたが、受け渡しで注文された方が不在で、アパートの門番が料理だけは受け取らなかったり、配達人のリュックにあまり数が入らなかったりなどで、一部かなりの遅配になってしまい、グループを代表しまして、心からお詫び申し上げます。
次回からデリバリーを継続するという事であれば、配達人の数を増やしたり、対策をしっかり練りますので、どうか引き続き宜しくお願い致します。
次回は本年10月か11月に第3回GMGイベントを開催予定です。
色々な反省点を解決して、皆様に益々喜んでいただけるように、努力しますので、これからもご支援ご協力お願い致します。
日時:日本時間3月21日(日)午前10時
去る2021年3月20日午後10時(日本時間21日午前10時)、第1回世界岐阜県人会会議が、オンラインによって開催されました。
2020年1月下旬、KenrenとHirotaグループから、県人会参加の日本料理コンテストに招待されました。 「日本の一部をブラジルに」をテーマに、日本料理をブラジルに広めるためですが、コンテスト参加数は、9県人会だけと決められていました。 16県人会が参加に興味を持っていたので、抽選があり、岐阜県人会は9県人会中に受賞しました。 コンテストのアイデアは普通の人でも、簡単に、おいしい日本料理が作れるという考え方でした。
私たちは日曜日に小人数の人々を集めて、レシピから、この料理を準備することの難しさを見るために、料理の訓練をしました。 とにかく料理プロは誰もいなかったので、県人会委員マルコス 亮 橋本氏(1994年の元県費留学生)が「シェフ」を代表すると定義され、素晴らしいプレゼンテーションを行いました。


去る2月16日、PLゴルフクラブにて、第11回ブラジル岐阜県人会杯ゴルフコンペが開催されました。 1月31日に予定しておりましたが、自粛規制で中止になり延期となりました。
去る年の暮れも迫った12月23日午前、絵画展メンバー(橋本マルコス亮委員長、小田エルザさん、矢島エイジさん参加、加藤允彦さんは、アクセス不良で残念ながら参加できず。)と桑名良輔在サンパウロ日本国総領事でオンラインにて面談がありました。
戸谷 み江(トタニ ミエMie Totani)は1898年11月16日生まれで、当時16歳の時に岐阜県からブラジルに移住しました。
ブラジルでは、アウタ・モジアナ(Alta Mogiana)地方の農場で働き始めました。
どうか良いお年をお迎え第2波、第3波と新コロナビールスの脅威に晒されていますが、この一年皆様におかれまして、ブラジル岐阜県人会が相変わらずのご協力、ご支援を賜り、会を代表しまして心より感謝申し上げます。
1959年の伊勢湾台風や、直近では今年7月に岐阜県内を襲った豪雨など、長年にわたって水害に悩まされてきた岐阜県。なかでも木曽三川が集中する、安八郡南部や海津市などの西南濃地域では、洪水から集落を守るための知恵として、住民たちは周囲を堤防で囲む「輪中」を築き、特有の生活を育んできた。県の公立小学校の社会科でも紹介されるなど県民にとってなじみ深い輪中は、そもそもなぜできたのか。そこにはどんな生活があったのか、改めて振り返った。 輪中は、川の流れの直撃を防ぐために上流に面した部分に築かれた、U字型やV字型の堤防「尻無堤」や「築捨堤」が当初の姿。次いで、下流から逆流してくる水を防ぐために堤防を築いたことでできたという。 現在の輪中地帯はかつて湿地帯だった。「本来なら住めない地域に住んだ結果として輪中が生まれた」と語るのは、大垣輪中研究会(大垣市)の伊藤憲司代表。伊藤さんによると、輪中ができたのは江戸時代初期。戦国時代を経て安定した統治が始まって経済が発展、新田開発が盛んになったことも追い風に次々と輪中集落が誕生した。明治の初め頃には西南濃地域を中心に約80の輪中があったという。 多くの輪中が生まれた背景には、地理的な事情も重なる。水源がそれぞれ異なる長良川、揖斐川、木曽川の大規模な河川が集中する上に、地形は東高西低。増水した木曽川が長良川や揖斐川に流れ込むことがあったことから、木曽川以西には特に集中していたという。輪中のような堤防は他県でも造られたが、伊藤さんは「これだけ集中しているのは珍しい」と話す。 周囲を河川に囲まれた輪中集落では、特有の農業方法や生活文化が生まれた。大垣市入方の「輪中館」と「輪中生活館」ではその一端を紹介している。輪中館では、田や畑を洪水被害から守るために工夫を凝らした農耕法「堀田」を紹介している。土を掘りその土を積み重ね田畑を高くして、周りは水路にして舟で行き来していた。地主建築の民家「旧名和邸」を解体、復元した輪中生活館では、洪水時に生命や財産を守る場所として、母屋より高い場所に石垣を築いて建てた「水屋」や、万一の際に逃げられるように避難用の小舟をつるしておく「上げ舟」が玄関先の土間に展示され、当時の暮らしを再現している。 こうした独特の生活と合わせて、輪中地域特有の気風としてちまたでささやかれているのが「輪中根性」なる言葉。「仲間内の結束は固いが排他的」というような負の印象を持って語られることが多い言葉を、当人たちはどう考えているのか。町内一帯にあった福束輪中からその名を取られたという安八郡輪之内町の木野隆之町長に疑問をぶつけてみた。同町で生まれ育った木野町長は「それほど日常的に使われているわけではない」とした上で「『日常生活を維持するために、どう災害に備えるか』という意識による結束が、外側から見ると入りにくいように見えるのではないか」とみる。その上で、「災害時に必要な『自助や共助』の考え方を先取りしていたのではないか」と指摘した。 「輪中根性」には決して他者を避ける意図はなかった。厳しい自然と闘うための団結心、これからも襲ってくるであろう災害に負けないために必要な心構えだったのだ。


「がんばろう!みんな、げんき!」
今年の初め、ブラジル岐阜県人会と在サンパウロ日本国総領事館が共催する重要で伝統的な文化イベントの委員長を務めるように打診されました。
本年11月3日、第16回友情交流絵画展の開催に際してブラジル岐阜県人会会長として絵画展実行委員会のメンバーの一人として参加させて頂き、色々勉強でき大変良い経験になりました。
コンピューターグラフィックス(CG)を駆使した3D映像による花火の動画が楽しめる「オンライン夢花火 I Love Gifu 岐阜の宝もの」(岐阜新聞社 岐阜放送主催)の特設動画サイトが、11日に開設された。県内観光情報なども満載で旅気分が味わえる。ぎふチャンテレビ特別番組も30日午後6時30分から放映された。
動画では、立体的な果物の花火や、炸裂する花火の中を通り抜けるように視点が変化するなど、CGならではの表現が展開されている。今後、新作動画を順次アップする。自慢の観光資源を県が認定する「岐阜の宝もの」、「ウィズコロナ」における新観光スポットを紹介するコーナーなども設けた。
2015年7月~2019年3月まではジェットプログラム同窓会ブラジル支部の会長との役割を受け持ち、元国際交流員の経験が深り、私の、二つ目の忘れない出来事がありました。2016年、平成28年11月7日に京王プラザホテル新宿で「JETプログラム30周年記念式典及び記念レセプション」に世界中から800人の方々が招待されて私も東京へ行きました。その際に、強力なセキュリティの中で式典が行われていて、世界中の国々から17名の会長が一部屋に集まり、当時の徳仁皇太子殿下と雅子妃殿下との面談が各代表者に30秒のお話が許されるとの知らせがありました。足がふるえ、頭はこんがらがって何をお話していいのかが一番の問題でしたが、私のばんになり、皇太子殿下はとても優しい笑顔で「ブラジルには二回も行きました」と言われ、ほっとしてある程度スムーズな話の流れになりました。雅子妃殿下とのお話も同じように優しいお顔でブラジルの日系社会は活発だとおっしゃっていました。
岐阜県の国際交流員としての歩みは人生の中で思いがけないほど沢山の出来事がありますが、ブラジルに住んでいる我々は岐阜県の誇りをみんなに紹介する役割を果たすためにこの世に生まれてきたのではないかと思います。岐阜県民の皆さんはどう思いますか。その都合で毎年再開する「日本祭り」は本当に日本のゆかりのある人達には一番需要なイベントだと考えます。是非是非来年は皆さんの手を貸して頑張りましょう
去る9月7日(月、祝) 、PLゴルフクラブにて、コンペが開催されました。
ブラジル連邦共和国サンパウロ州レジストロ市出身の清水リーナ春美です。純粋な日本人の血を継ぐ日系二世です。父は岩手県一関市出身で、母の先祖は岐阜県坂内村です。
2003年4月から2006年の3月までに、財団法人岐阜県国際交流センターの国際交流員として三年間活躍しました。ブラジルへ帰国して14年も去りましたが、ブラジルと岐阜県の架け橋で様々な貢献を続けられて幸いと思っています。レジストロ市でのボランティア活動が、日本での仕事の一部になりました。レジストロ市にはレジストロ日伯文化協会があり、ブラジルのほとんどの文化協会や県人会の活動が必ずしも活発でない中、日本文化を必ず生かしたい、守りたい、続けたい気持ちを深く持ち、そしてその考えから、日本と同じような街づくりをやるようにしています。私にとって文化の啓発は国際交流員の大きな仕事のひとつでした。皆さんの意見はどうでしょうか?グローバル化の時代で国際交流の重要性を理解できますか?
2004年9月には小泉総理大臣がブラジルを公式訪問する直前に、国際交流員としての初めてのすごい機会、JET Programmeに参加していた16名のブラジル国際交流員が小泉首相との懇談会に招待され、私の人生の中で、忘れることのできない思い出になりました。麻生太郎大臣もブラジルに3か月くらいに住んだことがある経験と我々にも会ってくれました。平成16年11月には岐阜県人ブラジル移住90周年記念高齢者招聘事業が行われ、母が団体の代表として岐阜県を訪問することができ、私は大感激でした。(財)岐阜県国際交流センターの事業の企画・運営にも数多く参加できました。平成17年には、ブラジル人学校で防災訓練を実施しました。また、法律問題に困っている外国籍の方々に「外国人のための無料法律相談」を行い、弁護士と相談者間の通訳を行いました。平成18年には、日本人と在住ブラジル人が集まり、これからの地域づくりについて考える「多文化共生シンポジウム」にも携わりました。国際関係のみならず、日本の政治、経済、文化、社会や県政の知識を高めるのも国際交流員には必要不可欠です。
自己紹介をします。私の名前は中田リカルド顕三です。現在27歳で、ミナス•ゼライス州、イタジュバー(Itajubá/MG)連邦大学のバイオ•プロセ及びバイオ•テクノロジーの工学部を卒業しました。現在、R&D(Research & Development 研究と開発)のエンジニアとしてNippon Ham Foods Ltd. (日本ハム株式会社 Nippon Hamu Kabushiki-gaisha)、そしてコンセプト•エージェンシー(Concept Agency)のモデルとして勤務しており、自由時間にはダンス、及びサーカスの曲技飛行の教師として働いています。

大野光男氏は1946年10月8日岐阜県富之保(とみのほ)大野村、現在関市で誕生しました。2020―2022年任期の岐阜県人会の正監事です。
今年(西暦2020年)の初期、中国で発生した流感のウイルスがヨーロッパに広がって、ブラジルに来る可能性があるとうわさされました。 遠い世界の出来事のように聞こえ、ただの風邪だと言う権力者さえ現れました。
謹啓
日本政府は4月29日、2020年(令和2年)春の受勲者を発表した。 伯国からは邦人2人、外国人9人の計11人が叙勲を受けた。
岩嶋健次領事(45、岐阜県)は4年8カ月にもおよぶ長任期を終え6月7日フライトホームされた。 岩嶋領事は2015年10月に現職に着任。 18年には、眞子内親王殿下のご来伯も経験。 岩嶋領事は通算約10年のブラジル生活を振返り、「一番思い出に残っているのは、やはり移住110周年を日系社会一丸となって祝うことができたことと、眞子内親王殿下にブラジルにお越し頂だき、訪問先の移住者の喜ぶ様子に接することができたことです。 私自身、今まで日系移住地を100ヶ所以上訪問しましたが、どこも温く感迎してくれました」と感慨い深げなさらに「日本以上に日本の価観を守まもり続けていることから、今日のブラジルは日系人のおかげで成り立たっていることを毎回痛感しました。 帰任後も日系社会との関りを保ち、将来またブラジルに戻りたいと思っています。 ブラジル日系社会での経験は心の財産です」と述べている。
社会奉仕を貫いた生涯-ブラジル移民の恩人として戦争回避を願う
私は日系二世の佐久間ソニア由美子です。 父母は岐阜県大垣市出身の佐久間実,佳子です。

シンポジウム、交歓カクテルが終わった後、約46名の参加者がJapan Foundation(国際交流基金)、ブラジル日本文化福祉協会(文協)、日伯援護協会(援協)が共催するデジタル日本-マップされた投影イベントを見学するために、イビラプエーラ公園内にある日本館を訪れましたが、コロナウイルスによる災禍のために、閉館されていました。
この日本館は、岐阜県の建築職人による熟練された技法が駆使されて建設されたものです。石庭、錦鯉の池など、日本独特の庭が再現されています。石庭、枯山水(かれさんすい)は、池や川などを使わず、石や砂などで風景を表現する日本庭園の様式のひとつです。1954年、サンパウロ市創立400年を記念して、日系移民が「日本庭園」または「日本館」をイビラプエラ公園内に作ってサンパウロ市に贈ったものです。京都の桂離宮をかたどって作製されています。館内には陶芸品、武者の装備や道具、掛け軸などが保管されており、現在は文協が管理しています。
シンポジウム後、幸いにも和太鼓演奏は中止されませんでした。和太鼓「生(しょう)」の木下節生(42、二世)さんのチームが約1時間、魂を込めて太鼓を打ち続けました。和太鼓の鼓動は、心を揺さぶります。なお、「生(しょう)」は音楽療法士である木下節生さんとその妻である岩本光惠さんが2002年にブラジルと日本の文化を融合する目的で作った和太鼓チームです。
日本郵便の「郵便番号データ」で地名の読み方を調べると、県内では瑞穂市の十七条(じゅうしちじょう)と海津市海津町の七右衛門新田(しちうえもんしんでん)が「しち」と読む一方、七宗町のほか、岐阜市の七軒町(ひちけんちょう)と西改田七石(にしかいでんひちこく)は「ひち」読み。七軒町は交差点名標識も「Hichikencho」で表記されている。
去る1月26日(日)正午よりPLゴルフクラブにて「第9回ブラジル岐阜県人会杯ゴルフコンペ」が晴天の下、開催されました。
初めまして!
