ブラジル岐阜県人会便り
インターネット版
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第300号
2016年8月

日本人街と言われた、リベルダーデ地区
その暮らしと変化

     
     これまでの日本人移民と言葉等の問題は、個人のレベルでも広い角度からも、多くの方々が検討され、研究もされてきたように思います。
     私は50年以上も「サンパウロ市リべルダーデ」界隈を仕事のエリアとして関わってきました。 プラッサ・ダ・セーを中心に地下鉄が東西南北と運行されるようになってからは、さらには日本人街から東洋人街へと変貌と進化を続けています。


1967年 リベルダーデ広場より撮影
「Eduardo」と「Casa Conde」が2016年現在の「Casas Bahia」

     また、リベルダーデ区域で県人会の団体運営にも携わって来ました。 つまり、長年にわたって、このような特殊な地域で、日本語を中心とした仕事や日々の暮らしなど、この地域を切り離しては考えにくい一面がありました。 以下、経験則に沿った話や感じたことなど思いつくままに記してみました。
     現在もガルボン・ブエーノ街やその周辺に日本食品の買い出し、あるいは日本食レストランなどに時々足を運びますが、どの店舗でもまず日本語を使うことはありません。 仮に使用する機会があったとしても、60パーセント以上の店員さんたちは、日本語が通じないのが現状です。
     他方、最近は週末に各地の日系集団地で、その土地に見合った個性あるイベントが開かれており、大きな賑わいを見せています。
     そこには多くの日本方式を見習ったお祭りや、日本食が深く関わっている食料品が処狭しと販売されています。 日本移民として渡ってきた私にとっては、力強いものを感じます。
     かつてのリベルダーデ界隈には「すし」を前面に出し、日本らしさを売り物にしたレストランや日本人が好んで求める食材店などが多数ありました。 今は日系人集団地やブラジル各地でも日本食は売られるようになっています。 ですが「リベルダーデ地区」のように、日本食材やレストランが集中している所は他に例はないように思います。
     私がリベルダーデ界隈を知って、すでに50年以上の年月が経過していますが、当時のガルボン・ブエーノ街にたどり着くまでには大変なことでした。
     つまり、ブラジル語の発音が難しく、ガルボン・ブエーノ(Galvão Bueno)が正確に発音ができず、タクシーの運転手が、そんな町は知らないという始末でした。
     当時、リベルダーデ地区(トーマス・ゴンザーガ街、グロリア街)周辺は街路樹が欝蒼と茂っており、現在のニッケイ新聞ビル前には、崩壊寸前の「テアトロ」(劇場)があり、崩れかけた劇場正面と広場は草が生い茂っていたように記憶しています。 今では、影も形もなく、過去を偲ぶものは全くありません。 (今の三重県橋周辺)
     バイロ・リベルダーデ地区が制定されたのが、1905年と言うことですが、その1年後には藤崎三郎助氏が、藤崎商会を創業。 日本からの駐在員も3名が派遣されていたと、サンパウロ市東洋街の年譜に記載されており、さらには、コンデ・デ・サルゼ―ダス街(サルゼ―ダス伯爵邸)周辺では馬車が悠然と街中を闊歩していたとも書かれています。
     当時の初期移民はコーヒー耕地の契約労働者で、搾取と暴圧に耐えかね、サンパウロ市の中心部、つまりコンデ・デ・サルゼーダス街の一角に住むようになったのが、始まりだとも言われています。
     当時も今も、この界隈はアップダウンの激しい地域ですが、「半田智雄著、移民の生活の歴史」によれば、地下室で暮らしていた日本人移民は1910年頃から始まり、最盛期には600人ほどの借家人(日本人)が暮していたとも記されています。
     ここにはすでに、海外興業支部や、日本最初の進出企業ともいわれる藤崎商会なども居を構えていたそうです。
     プラッサ・ダ・セーを取り囲むように、コンセリェイーロ・フルタード街、コンデ・ド・ピニャール街の周辺にも、1914年~15年ごろ奥地からの移転組が、徐々に住み始めていたようです。
     1930年頃にはジェトゥリオ・バルガス革命以後、世界経済恐怖の影響等々ブラジル政治のナショナリズム化が芽生えてきましたが、さして、強いものではなかったとも言われていました。 ちなみに1932~5年頃、サンパウロ市で生活を営んでいた日本人移民の数は、2000人であったと記録されています。
     戦後、私がブラジルに移民として渡伯して来た当時には、すでにシネ・ニテロイ(1953年開設)がガルボン・ブエーノ街(今の大阪橋のところ)で東映映画常設館として営業を開始しており、またホテルも兼ね備えていました。 さらに1960年代に入ると、日本ブラジル文化協会では、サンパウロ市制400年を記念して(プラッサ・カルロス・ゴメスのビル内に事務所を構えていた)日本文化センター建設委員会が発足。 1963年の「南米銀行」ガルボン・ブエーノ支店の開設、ブラジル松竹直営映画館であった、「シネ・二ッポン」、「佐藤旅館」、日本食の「こけし食堂」などが立て続けにオープン。 「ガルボン・ブエーノ街」一帯は、すでに新来の日本人や、奥地の日本人たちにも名は轟いていた様に記憶しています。
     1970年代にはガルボン・ブエーノ街の陸橋が、大阪府との姉妹都市条約が成立したことを記念して「大阪橋」と命名されました。 周辺も日本食を取り扱う小さなお店から「カーザ水本」「ナニワ商会」など日本品を取り扱う堂々たる商店やビリヤードを兼ねた食堂風の店なども開店しました。 盆踊り大会なども開かれ、「リベルダーデ商工会」は、日本人街の中心的役割を担っていました。 (1953年前後、田中義数氏が親睦会を作ったのが始まり)。
     その後は、日本の好景気とあいまって、ブラジルからの出稼ぎ者が急増する中、90年代に入ると、急速にバイロ・リベルダーデ界隈の多くの店が中国系台湾人たちの手に移り、時代の流れか、いつの間にか名称も「日本人街」から「東洋人街」(バイロ・オリエンタル)と呼ばれるようになってしまいました。


1975年 リベルダーデ広場より撮影
「ガルボン・ブエノ街入り口」

     今では、当時の面影を残すのは「ガルンボン・ブエーノ街」にある「赤い鳥居」であり、赤い街灯の「スズラン灯」、それに歩道に残る日本の家紋をあしらった、わずかな「タイル」のみで、日本語の看板は目につくことも無くなりました。
     わずかながら日本人街の匂いのようなものを感じるのは、日本食レストランが集中しているトーマス・ゴンザーカ街ぐらいではないでしょうか。
     それでもその一角にはすでに中国系の商店等が徐々に増え、日本語で話ができる商店が本当に少ないのが現状です。 皆様はどの様に思われますか?

(原稿: ブラジル岐阜県人会 顧問 山田彦次)

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