ブラジル岐阜県人会便り
インターネット版
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第290号
2015年10月

将来の県人会をもう一度考えよう!
創立以来77年も生き続けてきた我々だ。
自信をもって前へ進もう。

「歴史に埋もれないために」
      1888年5月13日、ブラジルの奴隷制度が廃止されました。 それから20年、当時盛んなコーヒー農業が深刻な労働不足に悩んでいました。
      19世紀末からイタリア人を中心としたヨーロッパからの移住が始まりました。 建前は雇用形式でしたが、初期のブラジルへの移民は、奴隷に等しいような生活条件が押し付けられました。 これを知ったイタリア政府は、数年後にブラジルの移住政策を変更し出国制限を始めました。
      一方、当時のブラジルは東洋人に対しては大きな偏見を持っていました。 ですが背に腹は変えられぬブラジル政府は1908年4月、始めて日本人のブラジル移住を受け入れました。 (サントス港に着いた「笠戸丸」は、6月18日でした)
      岐阜県人の移住が始まったのは、笠戸丸から始まって5年後の1913年3月30日でした。 神戸を出港した移民船「若狭丸」が、(5月15日)45日間の長旅を経て、11家族44名を乗せ無事サントス港に到着しました。
      情報不足のまま、ブラジルに上陸した岐阜県人(日本人)たちは、先輩移住者同様、筆舌に尽くしがたい苦労が降りかかりました。 最初に直面したのは「ブラジル語」でした。 さらに、移住者に追い討ちをかけたのが、文化のまったく違う中から生じる数々の社会的仕組みの違いや生活習慣でした。 例えば、開拓前線での生活は、学校、病院、郵便、交通手段、商売などブラジル側の諸制度、施設の未発達でした。 1934年当時、日本人の92%がブラジル各地の農村に居住していたとの報告があります。
      また、前山隆は「異文化接触とアイデンティティ:ブラジル社会と日系人」という著書の中で、当時のブラジル奥地には、子供教育の学校もなく、子供を生むにも、プロの産婆もおらず、人が死んでも焼場も墓地もないことがままあったようです。
      此処にあげる日本人移民で最も古い女性歌人の一人、開沼貴代の歌に開拓前線の厳しさが滲み出ています。
               「身自ら処置する覚悟さだめつつお産の書籍よみあさるなり」
               「この国に二人の子をば生みなして帰国望みもうすらぎにけり」
      岐阜県人移住者も例外ではなかった。 なれない労働、栄養不足、さらには、熱帯病(マラリヤに関する知識の欠如)、医療機関の不足等から発生する緊急の病気対策、交通の不便から生じる手遅れによる死亡など、奥地の日本人入植地では過酷な日々が、日常茶飯事の出来事として発生していた。 また、日本人移住者はより条件のよい仕事場所を求め移動したため、墓守も出来ず奥地では数多くの無縁仏が目立つのも日本移民の特徴だった。 この様な出来事に対し、前山隆は、少なくとも新大陸においては、墓といえるものをついに持たずに終わった人間的状況は大変多かったし、移民というもののおかれた社会的状況は、このような新大陸のありかたと、深く関わって構造化されてきていたとも記しています。   略歴、前山隆(マエヤマタカシ)1997年阪南大学国際コミ二ケーション学部教授
 
 
「成功、帰国がすべてに優先」
      多くの日本人移民はコーヒー園に入植しましたが、ブラジル事情に疎く労働賃金はコーヒーの収穫による出来高払い、日常生活品や食料品の調達制度の相違等々と、思いもよらない現実に直面し戸惑いと不安の連続でした。 そのため、岐阜県移民に限らず先駆者たちは、まず日本人同士の情報交換の場と、横のつながりを求め、やがては各地植民地に日本人会が設立されました。 一方では各県の方言が入り混じり意思の疎通に苦慮しました。 一例ですが、岐阜県の「べた言葉」つまり「あっちゃべた、こっちゃべた」これは「あちら側、こちら側」の意ですが、このような方言は価値観を共有できる同郷人たちの絆を保ちつつ、不定期でしたが幾つかの県人会同士がサンパウロ市内などで集まるようになりました。 岐阜の県人同士も1938年7月に「在伯岐阜県人会親睦会」として発足しますが、3年後には、太平洋戦争が勃発、枢軸国出身者だけの会合は禁止され、公共での場における日本語の会話も出来なくなりました。
      それを補う意味においても、岐阜県出身同士の個々の情報交換と横のつながりを、さらに強固にするための組織維持、そこで得る同郷人たちの情報は、もっとも貴重で大切なものでした。 したがって、同郷出身者や仲間たちとその場での噂話、愚痴話は、移民にとっては非常に有効な精神的安定剤の役割を果たしていたと思われます。
      これはある意味において、ブラジルという異文化社会の中にあって、夢見る故郷の美化につながり明日への活力につながりました。 岐阜県人移民も例外ではなかったように思われます。 家長制度が色濃く残っていた一世主導の植民地時代は、お互いがライバル関係ですが、嫁の愚痴話はしても、わが故郷の悪口を言うような輩がいないのも、当時の移民たちが持つ極めて大きな特徴の一つだったともいえましょう。
 
 
「新時代を模索するブラジル岐阜県人会」
      日本人の団体は大半が活動停止の状態でしたが1945年の終戦を境に言論と集会の自由を取り戻したため、サンパウロ市内及び近郊に住む人たちが1949年に「在伯岐阜県人会有志会」の名称で再出発しました。 音信普通の同郷人の消息調査も岐阜県の農務部主導ではじまりました。
      終戦間もない日本国は600万人からの海外出兵の帰還兵の就職等々で苦慮、余剰人口対処のため、全国各地方自治体では積極的に海外移住促進政策を打ち出していました。 岐阜県も1950年に「財団法人海外岐阜県協会」を設立、やがてブラジルでの移住者支援が打ち出され、設置案も検討されたようですが結局見送られました。 代わりに、岐阜県移住者の受け皿機関として、1954年9月に「在伯岐阜県有志会」を「在伯岐阜県人会」と改めました。 「在伯」という称号は岐阜県と繋がりのある団体という意味合いが強くありました。
      1960年代後半ごろからは、日本経済の急速な発展に伴い、1969年、初の「県費留学制度」が実施。 1970年に開かれた「大阪万博」を機会に、岐阜県と在伯岐阜県人会との交流事業は次々と誕生し活発化しました。
      1969年、名称も「ブラジル岐阜県人会」と改めました。 日本経済復興のシンボルとして1970年に開かれた「大阪万博」を機に、ブラジル側の好景気とあいまって「岐阜県出身移住者」も墓参りを兼ねた里帰りに大勢が参加しました。 つまり、帰国ブームが巻き起こりました。 原因は団体ツアーという新企画(月賦支払い制度)が大きな役割を果たしました。 20年以上続いた日本とブラジルの好景気に支えられていた訪日ブームも1990年代初期、日本のバブル終焉と時を同じくするように岐阜県と、ブラジル岐阜県人会側との、姉妹都市交流事業も衰退、廃止が相次ぎ、当会の活動も消極的になっていきました。
 
 
「出稼ぎブーム、何を県人会にもたらしたか?」
      2000年ごろを境に日本へ渡る日系ブラジル人が急増しました。 俗に言われる出稼ぎ現象が脚光を浴びていました。 この問題は、日本経済が回復、発展に伴い日本企業は働き手が不足してきました。 逆にブラジルでは近郊農家や中小企業の不振、更には日本とブラジルの賃金格差の大きさが日系社会で話題となり、日本への出稼ぎ現象が起きました。 ですが、後に日系人労働者をめぐる習慣の違い、言葉の問題等々と、日本での価値観の相違から労使間の問題にまで発展。 理由はいたって簡単で、人材を受入れる日本側も価値観を同じにする日系人だから、日本語も習慣も或る程度日本のことは理解出来るだろうと安易に考え導入に踏み切ったようなところもありました。 つまり、一世(日本人)の子供である二世・三世は日本人だという感覚のようでしたが、本人たちはブラジル人(外国人)という思いで働いていました。
      他方、ブラジル側の日系社会では、こうした現象をどのように捉えていたでしょうか?日本社会と接触する多くの日系人労働者は、日本社会に組み入れられ日本文化の影響を受け、ブラジルにない多くの日本文化を吸収し帰ってくるだろう。 というのが、大方のブラジル日系コミ二テイーの受け止め方でした。 特に、日本人を主体とした(公益団体)県人会、日本人会のような団体組織は一世の老齢化が急速に進み始めており代謝機能も徐々に衰え始めていました。
      したがって、団体幹部の多くは「日本文化を吸収して帰ってくる」との勝手な思い込みから、現実を見つめることなく、我田引水的思考方法でもって時を過ごしてきました。 さらにこの考えの根底にある原因の一つは、新しく移住を志す日本人移住者も皆無に等しく、故郷との交流事業も後退していた。 当会にも当てはまるのですが本来持っている県人会としての機能がうまく作動していないのに、危機感はまるでないことも上げられます。 さらに、付け加えれば、我々を取り巻く環境変化を身近な所で認識をしていたのにも関わらず、現実には、無責任から発生している「見ざる、聞かざる、言わざる」の「三ザル」が横行していることです。
      また、団体運営者の世代交代が本格的に始まりましたが、そこには、公益団体に対する基本的、物の捕らえ方ですが「儲からない」「徳にならない」という概念は、結局はそれぞれの人が持つ価値観の違いからでしょう。 日本語を母語とする一世と、日系人のブラジル人としての意識の使い分け、高学歴化と職業の多様化がもたらした意思の疎通、物言わぬ一世や二世が増え昔のような良き同胞社会は記憶のかなたになっていくようです。 「何の恩恵もない」ということであれば行動に移さない事は、ブラジルに限らず近代世界では、どこも同じかとは思います。 ですが、私たちに求められているのは、「社会のために何が出来るだろう」、「一人では生きられない!社会のために働けるようになったから…」このような「vision」を持つことにより少しでも地域社会に変化が起きればうれしいですねー。
      岐阜県人会は、長い間異国での生活をより豊かにするため、相互扶助の精神で77年間も生き抜いてきました。 協会組織である当会は70年代ー90年代前半ごろまでは、ほぼ90%以上一世中心の集団組織でした。 したがって、横の連絡も重要で、これまでに数十回の会報や県人会の実態調査を兼ねた近況報告も発刊され活発な県人会活動が行われてきました。
      1978年から続いている「岐阜県立農業高校生海外実習派遣団」の受け入れは2015年で37回目を数え、当会の受け入れ事業としては日本一を誇っています。 また、ブラジル岐阜県人の文化事業は、2004年から「在サンパウロ日本国総領事館」後援で多目的ホールで開催している「日伯交流友情絵画展」も県人会自慢の事業で、今年で11回を数えています。
      ですが失敗もありました。 当会では日本語教育の必要性を強く感じ、日本語教室の開設を試みましたが、資金と人材不足で挫折した事業もありました。 それに負けることなく、今も続けているのが、月刊機関紙「ブラジル岐阜県人会便り」です。 部数はインターネットの発達などで伸び悩んでいます。 ですが発行回数も290回、24年余も続いており今では47都道府県人会では唯一の「県人便り」と自負しています。
      その他、不定期ではありますが、親睦を兼ねた会員間の交流ピクニック、サンパウロ市内で毎年行われている、海外最大の日本郷土料理祭りにも参加しています。 これは規模も大きいため当会では、人手が確保できないこともあって、岐阜県出身者の専門業者に委託するなど、我々としては可能な限りの努力を続けています。
      さて、今後の課題として残されているのは、県人会運営の中心は「岐阜県人子弟」、つまり日系ブラジル人に移行する事は当然のことといわねばなりません。
      移住が途絶えた現在においては、時代にあった運営が必要でしょうが、まず考えられる問題は「ブラジル岐阜県人会」内での「使用言語」だと思います。 当会にかぎらず海外での県人会活動は、おのずと限界があるかもしれませんが、海外最大の日系人集団であるブラジルでは、その子孫のあり方を問い続けなければならない宿命のようなものも感じます。

(ブラジル岐阜県人会 会長 山田彦次)

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