ブラジル岐阜県人会便り
インターネット版
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第286号
2015年6月

恒例の岐阜県人会ピクニック
ジュンジアイー市近郊を日帰り観光

(ブラジル岐阜県人会監事、吉村マルセロ)

     ブラジル岐阜県人会では、5月17日(日)に毎年恒例の日帰りピクニックを実施した。午前7半に県人会事務所前に集合し、貸切バスでサンパウロ市から70キロ程離れたジュンジアイー市に向かった。今回は36名の参加者が集まった。
     ジュンジアイー市はブドウの産地として知られている。この土地でブドウの栽培は17世紀から行われていた記録があるが、大きく発展するのは19世紀末のイタリア人移民からである。ワインを好むイタリア人は、ブドウを作り自家製ワインも造っていた。1918年には当時主流であったコーヒー畑が霜の影響で大損害を受け、ブドウ業が町の収入源となり始める。そして1933年には、ある農園のブドウの「ニアーガラ」(ナイアガラ)種が突然変異を起こし新種の「ニアーガラ・ホザーダ」(直訳でバラ色ナイアガラ)が誕生する。翌年には「ブドウ祭」(Festa da Uva)も開催されジュンジアイー市をブドウの産地として全国的に位置づける事となる。
     バスに乗る事2時間余り、最初の目的地は「アデガ・マジエロ」(Adega Maziero)ワイナリーだった。予定ではサービスエリアで朝食を取るはずだったが、バス運転手の勘違いでサービスエリアには寄らず直行でワイナリーに到着。皆さん朝ごはんも食べずにワインを試飲することになった。
     「アデガ・マジエロ」は元々1888年にイタリアから移民したマジエロ氏が、個人用に造っていたワインが評判を集め事業化したものである。現在の経営者ペドロ氏は孫に当たる。年間生産量6万リットル代の小さなワイナリーだが、2007年に当時のローマ教皇ベネディクト16世のブラジル訪問ミサで使用するワインとして選抜されたことで注目を浴びた。この時使われたのが、やはり地元の自慢の「バラ色ナイアガラ」で造ったロゼワインである。更に2013年には、ローマ教皇フランシスコのアパレシダ市訪問ミサにも献上された。
     ワインで少しほろ酔いの一行は、朝食を取るために「エスタサォン・ファゼンダ」(Estação Fazenda)レストランに立ち寄った。ハムとチーズのサンドイッチを食べたりジュースやコーヒーを飲みながら会話する参加者たち、中にはワインの次にカイピリーニャを味わう会員の姿も見られた。
     その後「ファゼンダ・ノサ・センニョーラ・ダ・コンセイサォン」(Fazenda Nossa Senhora da Conceição)に移動。「ファゼンダ」とは大農園を意味している。ここのファゼンダでは農業の他、レストラン、乗馬、見学ツアーなどが運営されている。2時間程のツアーでファゼンダの案内と、コーヒーと海外移民の歴史が紹介された。
     創業は1810年のサトウキビ畑で、19世紀後半からはサンパウロ州北西で急速に進行していたコーヒー畑に替わったという。当時は800人近くの奴隷が働いていたと言われている。ファゼンダのファゼンデイロ(地主)は、サンパウロに複数の土地を有していたセハ・ネグラ男爵であった。コーヒー栽培で初めて機械を導入するなど、ブラジル帝国時代に注目された男爵の一人であり、ファゼンダの屋敷にはドン・ペドロ2世皇帝を招ねいた事もある。現在のピラシカバ市の市営スタジアムは彼の名を持つ。
     見学ツアーが終了し、一行がファゼンダのレストランでお昼を取れたのが2時頃だった。メニューの各品は3~4人が満足に食べられる程の量で、いくつかのグループに分かれそれぞれ注文をした。食後は街で開催されていた「ブドウ祭」にも立ち寄った。もちろんブドウ商品以外にも、他の果物やはちみつも販売されていて、屋外ではバザーや商品ゲーム、音楽ショーなどが行われていた。
     帰りのバスでは、皆さん一日中楽しんでくれた様でぐっすり寝る方も少なくなかった。サンパウロの岐阜県人会事務所前に戻ってきたのが夜の7時頃、そのまま解散となった。
 
最初の目的地にて集合写真

 

 

ツアーで学ぶ: コーヒーの歴史とブラジル

     ブラジルはコーヒーの生産地として有名だが、元々はアフリカ・エチオピア原産植物である。現在のコーヒーに至るまでの経緯ははっきりしていないが、ある説によると9世紀エチオピアのヤギ飼いのカルディが、不思議な赤い実を食べたヤギだけが異常に元気になるという事に気付き、地元のイスラム修道士に相談したところ、その修道院で眠気覚ましとして利用され始めたという。この気付け薬の噂は他の修道院にも広まり、徐々に(赤い実)コーヒーの実の需要が生まれたと伝えられる。当初は実をそのまま噛んだり、湯に入れて飲んでいた。
     その後、アラビア商人によってコーヒーが世界へ持ち出され、アラビア圏では大好評、お酒を禁じるイスラム教ではコーヒーがその代わりを果たしたからだと考えられる。そのため14世紀にヨーロッパにもコーヒーが届く頃、アラビア語のワイン「qahwa」が伝わり、現在の「コーヒー」の語源となったと思われる。
     豆を焙煎し挽く事が一般的に知れ渡ったのは16世紀になってからだと考えられている。この工程においても説は様々で、食料倉庫で火事が起き、焦げて香ばしい豆が偶然発見されたとも言われている。
     コーヒーは高価な商品だったため、コーヒーの木はまさに「金のなる木」だった。18世紀まではコーヒー市場は生産方法を極秘にしていたアラビア人の独占であったが、オランダとフランスが生産に成功し両国の植民地でも栽培が始まる。南米でもフランス領ギアナでコーヒー栽培が成功すると、そこにポルトガルが目を付けブラジル植民地へ密輸を企てる。この時一役買ったのがフランシスコ・デ・メロ・パリェタ軍曹長である。1727年にパリェタ曹長はフランス領ギアナの首都を外交を口実に訪れ、親しくなった首都知事婦人の手引きによりコーヒーの木の挿木と技術をブラジルに持ち帰ることに成功した。
     始めはブラジル北部での栽培はあまり良くなかったが、次第に南東部のサンパウロ、リオデジャネイロ、ミナスジェライスでは大成功する。19世紀初期から1世紀以上の間コーヒーはブラジルの経済を支え、サンパウロを中心ととする南東は急速に栄えた。この時期にコーヒーの流通を目的に国内初の鉄道も登場し、機械の導入によって国内でも産業革命が起きる。また、1822年のブラジル国としての独立と、1889年の共和国制宣言といった政治的不安定な時期を支えたのもコーヒーだと言える。
     しかし、1929年の世界恐慌でコーヒー業界も致命的な打撃を受ける。1930年にジェツゥーリオ・ヴァルガス大統領は大暴落した市場価値を回復させる為の政策を試みるが、「黒い金」とまで呼ばれたコーヒーは徐々にシェアを失い繁栄時代は幕引きとなる。これを機にブラジル政府は各種産業に積極的に干渉を始める。
     21世紀になってもブラジルのコーヒーは国際市場で3割のシェアを占める程名高いが、ブラジルで作られているコーヒーは大きく2種類に分けられ、アラビカ種とロブスター(カネフォラ)種である。後者は気候の変動にも害虫にも強く、格安で栽培できるが味はアラビカより劣る。
     ブラジルのスーパーで出回っている安いコーヒーはアラビカとロブスターの混ぜ合わせであり、「ブレンド」(blend)と称されてはいるが、コーヒー以外にも砂や虫の破片などが混じっているのも稀ではないという。良いコーヒーとは100%アラビカとされていて価格はブレンドの2~3倍である。良いアラビカの中でも、最も品質がいい「輸出用」とその余りの「国内用」に分かれている。ブラジルでは良いコーヒーは「グルメ」(Gourmet)や「輸出用」(Exportação)や「プレミアム」(Premium)などのラベルで販売されていて、価格はブランドによって様々だ。
     ちなみに世界最高級のコーヒーは動物から取り出されている。最も有名なのがインドネシア産の「コピ・ルアク」(Kopi Luwak)だ。かつては1キロ千ドルが相場だったこのコーヒーは、インドネシアに生息するジャコウネコにコーヒーの実を食べさせ、糞から未消化の豆を取り出している。ジャコウネコ特有のバクテリアと消化酵素がコーヒーに無二の甘みをもたらすと言われている。しかし、産地の動物虐待の現状が広く報道され「コピ・ルアク」の需要と価格も落ち、近年では象を使ったタイ産の「ブラック・アイボリー」(Black Ivory)コーヒーの1キロ千ドル以上の値が注目されている。ブラジルでも「ジャク」(Jacu)鳥を使いコーヒーが作られていて、価格は1キロ750レアル(240ドル)、ブラジル産では最も高い。
 
 
 
岐阜は織田信長
ゆかりの地で、
JR岐阜駅前には
「黄金の信長」像がある


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